2014年07月06日

7月6日 古地図散歩に行こう!江戸の水路跡 日本橋編

江戸時代の古地図を見ながら東京を散策する「古地図散歩に行こう!」、7月6日の午後は日本橋界隈で江戸時代の水路の跡をめぐってきました。


江戸時代の江戸は100万人の人口をかかえる世界最大の都市でした。この多くの人口を養うための経済力は、当時の江戸の町に縦横にはりめぐらされていた堀や川などの水路によって支えられていました。これらの水路を使って運ばれてきた多くの物品が、江戸において取引されて莫大な経済効果を生んでいたのです。


それらの水路も明治・大正・昭和を時代が移り、運輸や取引方法の変化にともなって不要となり、昭和40年代までにほとんどが埋め立てられてしまいました。今回はこれらの水路のうち、今はなきものの痕跡をたどることを中心に、その跡地を歩いてきました。


まずは人形町駅をスタート。日本最大の遊郭吉原は、浅草に移転する前は現在の人形町付近にありました。その吉原を囲んでいた堀の一部は江戸時代を通じて残っていました。


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江戸時代の地図に「竈川岸」と書いてある横にある水路がそれです。現在は一部は道に、また一部は人家の間の細い通路になっています。


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ここから現在は箱崎ジャンクションになっている箱崎川の跡をたどったのち、永代橋の方へと向かいます。現在の永代橋は日本橋川の右岸に架けられています。江戸時代には左岸にあったのですが、明治30年に現在の場所に架け替えられたのです。その現在の永代橋のある場所が江戸時代の埋立地霊岸島です。


霊岸島には運河が掘られていました。その運河「新川」の河岸では酒類が荷揚げされ、付近には多くの酒問屋の蔵が並んでいたそうです。第二次大戦の空襲で新川周辺は焼け野原になり、新川も空襲の瓦礫処理のために埋められてしまいましたが、現在も数軒の酒造会社の事務所や倉庫があります。新川に架かっていた三ノ橋があった場所は現在は公園となり、新川跡の碑が建てられています。


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霊岸島には福井藩松平家の屋敷もありましたが、その屋敷は越前堀と呼ばれる堀で囲まれていました。越前堀公園には、発掘された堀の石垣石が置かれています。


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湊橋を渡り日本橋川の北側に来ると、そこには江戸時代には稲荷堀(とうかぼり)と呼ばれた水路がありました。現在は埋め立てられて道路になっていますが、歩道に稲荷堀の説明板が立てられています。


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日本橋堀留町、日本橋小舟町の付近は江戸時代に2本の堀があり、その両岸では材木、食料、畳表や傘、雪駄などの生活必需品、非常に多くの品々が荷揚げされていました。ここが江戸最大の物流拠点だったのです。


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この2本の堀、「堀江町入堀」と「伊勢町堀」と呼ばれていましたが、これらの堀も現在は埋め立てられてその中央部は道路に、それ以外の場所にはビルが建っています。江戸時代の地図と見比べながら歩くと、このまっすぐな道がかつては水路だったことがわかるのです。今歩いている場所は、江戸時代の堀の真ん中だと想像しながら歩いてみるのも古地図散歩の楽しみ方の一つです。


今回の古地図散歩は、この2本の堀の跡を歩いた後、江戸橋から日本橋まで歩いて終わりとなりました。江戸橋から日本橋にかけては魚河岸のあったところで、江戸近辺の漁師たちが獲った魚を運んできて売っていたところです。関東大震災で壊滅し、築地に移転しました。それが現在の築地市場です。


今回のコース
人形町駅→元吉原堀跡→浜町堀跡→水天宮→永久橋跡→崩橋跡→湊橋→新川跡→霊巌橋→鎧の渡し跡→思案橋跡→小網神社→東堀留川跡→親父橋跡→堀留公園→西堀留川跡→江戸橋→魚河岸跡→日本橋


歩き旅応援舎の古地図散歩は、ほぼ毎週末に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

使用古地図:人文社復刻版江戸切絵図コピーライトマークこちずライブラリ



posted by 歩き旅応援舎 at 16:30| Comment(0) | 古地図散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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