2015年01月29日

1月25日 古地図散歩に行こう!竜閑川跡

江戸時代の地図を見ながら東京の町を歩き、そこにかつて何があったかを知ることで見慣れた普通の町にもたくさんの「見どころ」を見出す歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、1月25日の午後はかつて日本橋地区で江戸城外堀から隅田川を結んでいた「竜閑川」と「浜町堀」の跡を歩きました。

まず、「竜閑川」は神田川近くの外堀にあった鎌倉河岸のはずれからまっすぐに伸び・・・

Image1.gif


馬喰町駅付近で直角に曲がり、その後は再びほぼ直線的に隅田川に通じていた人工の水路です。

Image2.gif


いずれも江戸時代前期に水運のために掘られた水路です。昭和25年に戦災の瓦礫処理のために竜閑川から埋め立てられ、浜町堀は昭和40年代まで一部が残っていましたが、それも水の流れがなくなり悪臭を放つようになったことからすべて埋め立てられてしまいました。

しかし、姿を消した今も道路や公園となったその跡地ははっきりと見て取ることができます。このように、江戸時代の地図に描かれた「竜閑川」のとおりまっすぐな道となっています。

Image1.jpg


また、江戸の中心部を通っていたことから、周囲には様々な史跡があります。小伝馬町駅近くの十思公園は、江戸時代の拘置所にあたる小伝馬町牢屋敷の跡です。

Image1.jpg


一昨年、新ビル建設にともなって発掘調査が行われ、日本ではじめて牢屋敷跡の遺跡が発掘されました。そこで発見された井戸がガラス張りの地下に展示されています。

IMG_6858.JPG


IMG_6857.JPG


再び「竜閑川」の跡にもどり、ビルとビルとの間のまっすぐな道を進んでいくと公園に出ます。ここが水路が直角に曲がっていたところです。今も公園内には川と橋を象ったオブジェがあります。

IMG_6860.JPG


Image5.gif


ここからは「浜町堀」の跡になりますが、ほそい道にはこの地に暮らす人々の生活が垣間見えます。途中にはちょっとした飲み屋街があったりもします。

IMG_6861.JPG


さて、「浜町堀」からほど近い人形町は、江戸時代に堺町付近に芝居小屋が集まり、人形浄瑠璃に使われる人形を作ったり修理したりする職人が多く住んでいたことが名前の由来です。

Image6.jpg


浄瑠璃は操り人形の芝居ですから、人形を動かすためにバネが入れられています。そのバネはクジラのヒゲから作られていました。そのため人形町にはクジラの碑があります。

IMG_6866.JPG


また、芝居を見終わったらご飯を食べに行くのがお金持ちの道楽ですので、その名残で人形町にあった銀座(銀貨製造所)の跡地は今も料亭街となっています。

IMG_6865.JPG


「浜町堀」に戻ります。跡地は緑道になっていて、ここを進むうち箱崎ジャンクションのランプウェイの下を通るようになります。箱崎ジャンクションのある場所がかつての隅田川、「浜町堀」には「川口橋」が架かり、ここが水路の終点となります。

IMG_6872.JPG


Image7.gif


現在は埋め立てが進んで、江戸時代に「中洲」と呼ばれていた葦原までが陸地になっています。現在もこの埋立地の地名は「日本橋中洲」です。この「中洲」と対岸の「清澄」とを結ぶ清洲橋まで出たところが、今回の古地図散歩のゴールです。

今回のコース
神田駅→竜閑橋跡→白旗神社→今川橋跡→時の鐘跡→小伝馬町牢屋敷跡→竹森神社→三光稲荷神社 →橘稲荷神社→玄冶店跡→蛎殻銀座跡→大観音寺→西郷隆盛邸跡→谷崎潤一郎誕生の地→中洲跡→清洲橋

歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

使用古地図:人文社復刻版江戸切絵図コピーライトマークこちずライブラリ
posted by 歩き旅応援舎 at 09:33| Comment(0) | 古地図散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月28日

1月25日 あの町歩き番組のロケ地めぐり「赤坂」

今回初開催の新企画「あの町歩き番組のロケ地めぐり」、諸般の事情から番組名は出せませんが、タモリさんが女性アナウンサーと古地図を見ながら町歩きをするあの番組で出てきた場所を、やはり古地図を見ながら訪ね歩きます。初回の今回は番組の「赤坂」の回で出てきた場所をめぐります。

番組ファンの方には、「あ!ここテレビで見た!」という場所が出てくるはずです。

赤坂に行くのですが、集合場所は四ツ谷駅です。最初の目的地が迎賓館だからです。迎賓館は江戸時代に紀州藩邸があった場所に、明治42年に建設されたネオバロック様式の洋館です。

Image1.gif


当初は東宮御所として建てられたのですが、あまりの広さに住み心地が悪く、結局歴代皇太子殿下がここに住むことはありませんでした。

当の番組はこの迎賓館の門の前で、タモリさんとアナウンサーの会話から始まりました。

IMG_6834.JPG


番組内でタモリさんも言っていましたが、門が大きいです。そして門から建物までが遠いです。石畳が歩きにくそうです。

番組ではここで宮内庁の課長さんの案内で迎賓館の中を見学するのですが、放送局と自営業者の歩き旅応援舎では力の差が歴然としておりまして、迎賓館内部の見学ができようはずもございません。迎賓館の外塀に沿って、赤坂へと向かいます。

赤坂といえば料亭です。一時は200軒ほどあったらしいのですが、現在は10軒を下回る数しか残っていません。それでも立派な建物の姿を町中に見ることができます。

IMG_6835.JPG


こちらは番組の終盤にタモリさんが芸者を上げて遊んだ「赤坂金龍」。昭和3年創業の老舗の料亭です。番組にはワンカットしか出てきませんでしたが、かつて政治家がよく利用したことで知られる料亭「口悦」にも行きました。

IMG_6850.JPG


こちらは昭和37年創業。意外と新しいです。名前の由来は「口が悦ぶ」。いかにも料理がおいしそうな名前ですが、座っただけでも5000円以上はするといわれる高級料亭、おそらく一生縁がないでしょう。

番組で「赤坂のメインストリート」と紹介されていたのが一ツ木通りです。赤坂見附周辺が江戸時代には溜池の中だったのに対して、この一ツ木通りは江戸時代からあった古道です。

Image3.gif


ここにある和菓子店松月の2階の喫茶店で、タモリさんたちと解説の先生が話をしているシーンも出てきました。

IMG_6836.JPG


ただし、この日行ったときはまだ朝だったこともあり、お店は閉まっていました。よく見ると、店のシャッターには店内の様子が描かれています。開店中と間違えてシャッターに激突しないように要注意です。シャッターに激突すると派手に大きな音がします。とても恥ずかしいです。

さて、赤坂と言えば、もう一つは坂道です。「赤坂」の地名どおり、ここにはたくさんの坂道があります。番組では画面が切り替わるときに移っただけですが、この丹後坂も風情のあるよい坂道です。

Image4.gif


IMG_6841.JPG


タモリさんたちが「赤坂で一番の急坂」として下っていったのが、この三分坂。まるで「壁」のような坂道です。

IMG_6842.JPG


Image5.gif


この坂道を降りたところに練り塀のお寺がありますが、このお寺報土寺には、史上最強といわれる力士雷電為右衛門のお墓があります。本堂前にある雷電の手形石に、タモリさんが手を当てるシーンもありました。さっそくタモリさんと同じく手形に手を当ててみます。

IMG_6848.JPG


この日最後に向かったのは、番組では比較的最初の方に出てきた「溜池」の跡地です。こうして実際に歩いて見ると、番組に出てきた場所はけっして地理的に順番に並んでいるわけではないことがわかります。編集作業においてかなり前後が入れ替えられているようです。

Image2.gif


この溜池は外堀に堰を設けて堰き止めて貯水池にしていた場所です。江戸時代の後期にはかなり水量が減っていたという話もあり、明治に入ると埋め立てられて姿を消しました。しかし、その名称は交差点や東京メトロの「溜池山王駅」に残されています。

IMG_6851.JPG


赤坂というより虎ノ門ですが、外堀の石垣が残っています。文部科学省前から道路反対側の商船三井ビルの前にかけて残る石垣に、タモリさんも興奮していました。

IMG_8925.jpg


IMG_8920.jpg


しかし、番組に出てきた石垣は全部ではありません。また、外堀にちなんだものももっとあります。「あの町歩き番組のロケ地めぐり」では、番組に出てこなかったこんなところにもご案内しました。

IMG_7545.JPG


IMG_9393.JPG


参加者のみなさんもオフィスビル街の意外なところに残る石垣に大興奮でした。

今回のコース
四ツ谷駅→迎賓館→赤坂見附跡→赤坂の料亭→丹後坂→三分坂→雷電為右衛門の墓→溜池跡→外濠の石垣→虎ノ門駅

「あの町歩き番組のロケ地めぐり」は今後月2回程度、4月の番組再開までの間限定で開催する予定です。2月は7日に「六本木」、22日に「江戸城外堀」の放送で出てきた場所を訪れる予定です。くわしくは歩き旅応援舎のホームページをご覧下さい。

使用古地図:人文社復刻版江戸切絵図コピーライトマークこちずライブラリ
posted by 歩き旅応援舎 at 18:04| Comment(0) | ブラタ・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月27日

1月24日 古地図散歩に行こう!江戸の水路跡日本橋編

江戸時代の地図を見ながら東京を散策し、観光地ではない普通の町の魅力を発見する歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、1月24日の午後は江戸時代の日本橋地区にあった水路群の跡をめぐってきました。

Image1.gif


江戸時代には、このようにたくさんの水路がめぐらされていました。ほとんどが江戸で消費される物資を船で運び入れるためのものでした。

まさに“水の都”だった江戸ですが、明治・大正・昭和と時代が下るうちにつぎつぎに埋め立てられて、現在残っている水路はわずかとなってしまいました。

これらの水路の跡を今回は見て回るわけですが、人形町駅で集合して最初に向かったのが、この小さな水路の跡です。

Image2.gif


入江橋から始まる一直線の短い水路です。この水路は、吉原遊郭が浅草に引っ越す前の元吉原の堀の跡だといわれています。

江戸時代の初期に小田原北条氏の旧臣庄司甚右衛門が、江戸のあちこちにあった遊郭を一つにまとめたのが吉原遊郭です。最初はこの堀から富沢町・長谷川町の辺りまでにかけてありました。

Image3.gif


明暦の大火後(1657)に吉原は浅草に移転しました。その後は町屋となり、堀のほとんどは埋められたようですが、この堀だけが残りました。堀沿いにかまど職人が多く住み、「竃川岸(へっついかし)」と呼ばれていました。「河岸(川岸)」とは船荷を積み卸しするところのことですから、造られたかまどを船で出荷する必要性から、この堀だけが残ったと考えられます。

その元吉原の堀の跡がこれです。

IMG_6815.JPG


人家と人家の細い隙間となっています。

以前はもっと広かったのでしょうが、埋め立てられた後に左右から人家がせり出してきて、このように細い隙間になってしまったようです。

さて、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻め滅ぼした後、徳川家康が江戸にやってきました。そして最初に家康が行ったことの一つが、江戸の町づくりでした。家康は江戸城前の海や湿地を埋め立てて、宅地となるべき陸を増やしました。その最初の埋立地が永久島です。

Image4.gif


「永久橋」の下に「●田安殿」などと描かれている場所が永久島です。永久橋の架かっている水路は箱崎川で、現在は首都高速が走り箱崎ジャンクションがあります。高速道路にするために箱崎川は埋め立てられてしまったわけですが、歩道に忽然と現れるこのコンクリートの塊は、箱崎川があったときの堤防の一部だと思われます。

IMG_6817.JPG


永久島の隣に造られた埋立地が霊岸島です。永久島とは湊橋と豊海橋でつながれています。霊岸島は現在深川にある霊巌寺を建てるために埋め立てられた土地ですが、霊巌寺は火事で焼けて深川に移転してしまい、島だけが残りました。この霊岸島を二つに分ける形で掘られた運河が新川です。

新川には一ノ橋から三ノ橋まで3つの橋が架かっていましたが、三ノ橋の跡地は現在公園になっています。この公園内に新川跡の碑があります。

Image7.gif


IMG_6822.JPG


この新川で荷揚げされていたものは酒でした。かつては酒問屋の蔵が並んでいたそうですが、第二次大戦の空襲で全滅してしまいました。しかし今でも埋め立てられた新川の跡周辺には酒造会社の事務所が多いです。

なお、霊岸島には越前松平家の屋敷がありました。屋敷の周囲は堀で囲まれ「越前堀」と呼ばれていました。その跡地の一部に越前堀公園があります。

Image8.gif


IMG_6824.JPG


ここには越前堀の護岸の石垣が置かれています。それにしても、堀の跡の公園だから船があるのはわかるのですが・・・

IMG_6823.JPG


なぜ象さんがいる?!?!


しかも2匹も?!?!


さて、江戸時代の江戸は100万人もの人が暮らす世界最大の都市でした。これらの人々が生活するために必要な食料や物資のほとんどは江戸近郊で生産されて船で江戸まで運ばれてきました。

それらを荷揚げする大流通拠点が江戸にはありました。江戸橋近くの日本橋川から掘り込まれた2本の入堀です。東側の一直線の堀が堀江町入堀、西側の「く」の字に曲がった堀が伊勢町堀と呼ばれていました。

これらの堀は明治時代になり、それぞれ東堀留川と西堀留川と名を変えます。堀留とは、堀が行き止まりになっている場所のことです。両方の川とも、船の荷揚げのために掘られたものですので、どこに通じるでもなく行き止まりになっていました。

Image5.gif


現在はともに埋め立てられて残っていませんが、まだ堀があったころ、明治時代の写真が残っています。

小網町河岸.jpg
国立国会図書館蔵


見てのとおり、堀沿いにたくさんの蔵が建ち並び、多くの船が留められる船着場となっていました。この2本の堀で米、塩、材木、鰹節、干物、蓑、笠、畳表、麻など様々な物品が荷揚げされ、江戸の市中に流通していきました。

東側にあった堀江町入堀は、日本橋川から入るとすぐに左に曲がっていました。

Image9.gif


その曲がった部分の跡がここです。これら2本の堀の跡は、堀があったころそのままの形で中心の3分の1ほどが道路となっているのです。

IMG_6826.JPG


その先には堀を埋め立てたそのままに、堀と同じ幅の公園があります。その名も堀留公園です。

IMG_6828.JPG


ただ見ただけでは細長い普通の公園ですが、かつてはこの公園の形そのままに広くて長い堀があったのです。

もう1本の伊勢町堀も、現在は中心の3分の1くらいが道路となっています。

IMG_6830.JPG


この堀江町入堀(東堀留川)と伊勢町堀(西堀留川)のそれぞれの入口近くの江戸橋から隣の日本橋に架けては、江戸時代には魚河岸がありました。ここで江戸近郊の漁師たちが獲った魚が荷揚げされて魚市が開かれていたのです。

この魚市場は関東大震災で壊滅的な被害を受けて移転しました。移転した先が現在の築地市場です。

かつてここに魚河岸と魚市場があったことを記念する碑が日本橋のたもとにあります。魚を扱っていただけあって、竜宮城の乙姫様の形をしています。

IMG_6832.JPG


今回の古地図散歩は日本橋で終了です。日本橋地区も水路という視点で古地図を見ながら歩くと、いろいろと面白いものが見えてきました。

今回のコース
人形町駅→元吉原堀跡→浜町堀跡→水天宮→永久橋跡→崩橋跡→湊橋→新川跡→霊巌橋→鎧の渡し跡→思案橋跡→小網神社→東堀留川跡→親父橋跡→堀留公園→西堀留川跡→江戸橋→魚河岸跡→日本橋

歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

使用古地図:人文社復刻版江戸切絵図コピーライトマークこちずライブラリ
posted by 歩き旅応援舎 at 16:50| Comment(0) | 古地図散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。