2015年02月26日

2月22日 古地図散歩に行こう!西早稲田〜江戸川橋

江戸時代の地図を見ながら東京を歩くと、今まで気づいていなかったものが見えてくる歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、2月22日の午前中は「西早稲田〜江戸川橋」コースを歩いてきました。

井の頭公園内にある井の頭池を起点とする神田川は、江戸時代には江戸川と呼ばれていました。決闘で有名な高田馬場の北側には、この江戸川がつくった低地が広がり、それは目白台の下までつづいていました。

今回はこの神田川流域の低地帯を、江戸時代の地図を見ながら歩いてきました。

まずは高田馬場跡。中山安兵衛(後の堀部安兵衛)が決闘の助太刀をしたことで有名な場所です。この決闘の様子は「安兵衛18人斬り」とよくいわれますが、実際には決闘の相手方は3人しかいませんでした。

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高田馬場跡は現在は住宅地になっています。しかし、かつて馬場だった細長い区画はそのまま残り、馬場の跡を取り囲んで道路が続いています。この写真は馬場の北側に当たる部分のまっすぐな道路、この道路の右側が馬場だった場所となります。

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高田馬場跡の北側には水稲荷があります。境内の椋の大木の根元から湧き出る泉があり、火災からの守り神だった神社です。江戸時代の地図↑に「●清水殿」と書かれているところが現在水稲荷のある場所です。

水稲荷は、江戸時代にはもっと東側にあり、穴八幡と道路を隔てた向かい側にありました。

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それが「●清水殿」と書かれた清水家屋敷の跡を入手した早稲田大学との土地交換で、現在地に移ってきたのです。

水稲荷の境内には、「戸塚」の地名の由来となった富塚古墳がありました。その古墳も土地交換のときに一緒に高田馬場の北側に引っ越してきました。

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上の江戸時代の地図は北が右側に描かれています。高田馬場と水稲荷のある場所から北側は下り坂となり、地図にも描かれている神田川(江戸川)へといたります。

その坂道の途中にある亮朝院には都内唯一という石像の仁王像があります。また、狛犬もなかなかユニークです。ともに江戸時代に造られたものです。

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神田川を渡ります。姿見橋は面影橋ともいい、美女が水面に姿を映したなどという伝説がいくつも語られています。江戸時代の地図にはうねって描かれている神田川ですが、現在はまっすぐな川に改修されています。

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神田川の北側は目白台に向かって低地からの傾斜地になっていますが、この場所には江戸時代、田畑と大名屋敷が並んでいました。

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神田川(江戸川)流域の低地は川の水量が増すと冠水し、人が住むには適さない地でした。しかし洪水は上流から栄養に富んだ土を運んできます。そこで田畑として利用されていたのです。

そして目白台の傾斜地には湧き水が出ていました。ここは池のある庭園を営むのに適しています。そこでここには大名屋敷が多いのです。

江戸時代の人たちは、水害が多く急激な坂道がある一見住みにくそうなこの場所を、その特性を生かして上手に利用していたのです。

ここには古いお寺もあります。目白不動として知られている金乗院は、戦国時代終わりころに建てられたといわれています。この山門も江戸時代の終わりくらいに建てられたものです。

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この金乗院の本尊は聖観音菩薩像、秘仏です。「あれ?不動明王が本尊ではないの?」となりますが、実は金乗院が目白不動と呼ばれるようになるのは戦後のことです。それまでは神田上水の取水口近くの目白台の上にあった新長谷寺が目白不動でした。

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昭和20年の空襲で新長谷寺は全焼してしまい、かろうじて目白不動の不動尊像を運び出すことができたそうです。その後新長谷寺は再建されることなく廃寺となり、不動尊像は金乗院に移されて、そのから金乗院が目白不動と呼ばれるようになったのです。

この新長谷寺の前にあった神田上水の取水口は「大洗堰」と呼ばれ、徳川家康が江戸に来て間もない天正18年(1590)に造られました。ここで江戸川の水を堰き止めて水位を上げ、そこから一気に流れ落とした勢いで神田上水に水を入れていたのです。

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「江戸名所図会」より(国立国会図書館デジタルコレクション)


その水門の一部が今も江戸川公園の中にあります。

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ここから流れ出た神田上水が、神田川を樋で渡って江戸の市中に生活用水を供給していたのです。なお、この川の上に架かった樋が「水道橋」の駅名の由来になっています。

「日本最初の上水道」といわれた神田上水も明治34年(1901)には飲料水としての利用が廃止され、昭和8年(1933)には下水管を入れて埋め立てられてしまいました。その跡地は今は道路となっています。

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神田上水が廃止されても、神田川は今も流れつづけています。この川に最も古くから架かっていると伝わる橋が江戸川橋です。この橋の名前に由来する江戸川橋駅で、今回の古地図散歩は終了です。

今回のコース
西早稲田駅→高田馬場跡→水稲荷神社→甘泉園公園→姿見橋→氷川神社→目白不動→豊川稲荷→新江戸川公園→胸突坂→江戸川公園→大洗堰跡→神田上水跡→江戸川橋駅

歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

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2015年02月23日

2月21日 古地図散歩に行こう!千駄ヶ谷〜新宿

江戸時代の地図を見ながら東京の町を歩けば、普通の町にもたくさんの“江戸”が今も残っていることに気が付く歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、2月21日の午後は「千駄ヶ谷〜新宿」コースを歩いてきました。

知らない人が多いと思いますが、実は新宿区は江戸時代の文化財の宝庫です。関東大震災と空襲の影響を受けなかった区域が多く、江戸時代に創られたものがそのままの形で残っていることが多いのです。

歩き旅応援舎の古地図散歩には新宿区内の文化財をめぐるコースがいくつかありますが、今回のコースもその一つです。ただし出発点の千駄ヶ谷はギリギリで渋谷区です。

江戸時代の「千駄ヶ谷八幡宮」とも呼ばれていた鳩森八幡宮は、昔この付近の村人たちが多くの白鳩が飛び立つのを見たというのが名の由来となっています。

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ところで江戸時代の地図に「千駄ヶ谷八幡宮」と書かれている鳩森八幡宮、境内に富士山の絵が描かれています。鳩森八幡宮には、江戸でもっとも古いといわれている富士塚があるのです。

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大きいです。上まで登れます。頂上は、けっこう見晴らしがいいです。

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鳩森八幡宮から新宿御苑の方へ向かって歩いて行きます。新宿御苑はもともと高遠藩内藤家の下屋敷があったところです。3万石の内藤家が分不相応なほどの大きな屋敷地をもっていたことについては、こんな話が残っています。

内藤家の初代の内藤清成は、徳川家康のお気に入りの家臣でした。豊臣秀吉によって関東8ヶ国を与えられた家康は、江戸にやってくると四谷の原野を巡察にいきました。そのときに供をしていた清成に対して、「今、馬で駆け回ってこれただけの土地をやる」と言いました。清成は白馬を駆って広大な土地をぐるりと回って帰っていました。こうして馬で走り回れただけの土地を内藤清成は家康から与えられたのですが、白馬は戻ってくると力尽きて死んでしまいました。これが新宿に残る白馬伝説です。

この話は史実ではないとも言われていますが、内藤家が非常に広い土地をもらったことは事実です。幕府はこれを後になって後悔したらしく、内藤家の屋敷地は数次にわたって削られています。北側の土地を削られて甲州道中の宿場町「内藤新宿」ができたのをはじめとして、南側の土地も削られて武家屋敷地となりました。

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こうして造られた武家屋敷地には御切手組や黒鍬組の屋敷が並んでいました。計画的に造られた町ですので、区画が碁盤状になっています。現在もこの区画割りはそのまま残っています。国立能楽堂がある辺りです。

ほとんどが武家屋敷ですが、ところどころに町屋もあります。江戸時代の地図にグレーで描かれているところです。その痕跡は今でも残っています。江戸時代に町人や農民の間で大流行した庚申信仰ですが、ここに古い庚申塔が残っているのです。

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さらに北に行くと新宿御苑の柵が見えてきます。この柵沿いに新宿御苑の周りを回ってみると、御苑の東側に来たところにこのような草ボウボウの溝が出てきました。

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玉川上水の支流の跡です。江戸時代の地図にも「池尻」として描かれています。

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沖田総司が死んだときに住んでいた植木屋の離れは、この辺りにあったといわれています。

玉川上水ですが、新宿御苑の北側にあった内藤新宿に沿うように流れていて、内藤新宿の少し東側で地下にもぐって地下水道となっていました。その地下水道の入口には水番所が置かれていました。

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水番所の跡地にはその旨が記された大きな碑が建てられています。建碑を思い立った人物は計画半ばで死んでしまい、その妻が遺志を継いで10年かけて建てたという「水道碑」(すいどうのいしぶみ)です。

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あまり大きすぎて道行く人になかなか気付かれない碑です。私たちがこの前で話をしていたときに通りかかったカップルも、「あれ、こんなところに碑がある。何度も通ってたのに全然気付かなかった!」と話していました。大きすぎて塀やビルの一部だと思ってしまうのです。

ほとんどが埋立地の江戸の町では、地下水脈がないために井戸を掘っても水が出ませんでした。そのために上水道が発達して、江戸の町の地下にはこのように水道網が設けられていました。

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汐留遺跡から発掘された水道網


さて、この水番所ではこの地下水道に水が入る前に、ゴミや死体が流れ込まないように柵を設けてこれを除去していました。

し、死体?!


玉川上水は入水自殺が多く、そのため死体がよく流れてきたのだそうです。そのことについては後述します。

この水番所の跡には水道局が入ったビル、四谷区民ホールがあります。この8階のテラスからは新宿御苑が一望できます。飲料の自動販売機もあり、まち歩きの休憩にもってこいです。

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休憩が終わったところで、甲州道中だった国道20号の北側をめぐります。靖国通り沿いにある成覚寺は、遊女の投げ込み寺だったお寺です。

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内藤新宿はその名のとおり新しくつくられた宿場です。五街道の1つであった甲州道中は、当初は江戸から最初の宿場は高井戸宿でした。これでは距離が離れすぎているので、四谷の内藤家下屋敷の北側を削ってつくられたのが内藤新宿なのです。

ところが宿場を作ってみたものの、江戸から近すぎて宿泊する旅人はほとんどいませんでした。こういう宿場がどうなるのかは、江戸の周辺にあった品川、千住、板橋にも共通しています。旅籠屋が「飯盛女」と呼ばれる遊女を置くようになり、それを目当ての男客を集めるようになって、宿場は遊郭化していくのです。

貧しい農家などから借金のカタに連れてこられた遊女たちは、遊郭で働いて親が借りたお金を返すのですが、返済が終わる前に死ぬ人が大勢いました。内藤新宿では身寄りのない遊女たちが死ぬと、この成覚寺に運び込まれて埋葬されていました。これが「投げ込み寺」といわれるお寺です。成覚寺には遊女たちの埋葬地にあった供養塔「子供合埋碑」が残っています。

成覚寺内には遊女に関わるものとして、旭地蔵という石地蔵もあります。

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遊女目当てに内藤新宿の旅籠に泊まる男たちの中には、遊女と恋仲になってしまう者もいました。しかし借金を返済しなくてはならない遊女を身請けするには、借金の残金分のお金がいります。男にそのようなお金がない場合どうなったか?

答えは心中です。

玉川上水では遊女と男の入水心中が多く、その男女を弔うために玉川上水のほとりにあったのが、この旭地蔵なのです。明治11年(1878)に、道路工事によって旭地蔵は遊女にゆかりのある成覚寺に移されてきました。

さきほど水番所で死体が流れ込まないように見張っていた話を書きましたが、玉川上水に死体が流れてくるのはこのような悲しい話があったからなのです。

気分が重くなったところで、今回の古地図散歩は終了です。

今回のコース
北参道駅→鳩森八幡神社(富士塚)→新井白石終焉の地→千駄ヶ谷駅前→伝沖田総司逝去の地→多武峯神社→四谷大木戸跡・玉川上水水番所跡→田安鎮護稲荷神社→小泉八雲旧居跡→自證院→禿坂→茗荷坂→正受院→成覚寺→新宿三丁目駅

「千駄ヶ谷〜新宿」コースはあまり楽しくない終わり方をしますが、今の日本は良いことばかりで成り立ったわけではありません。良いことも悪いこともすべてをまとめてその地の歴史なのです。ここで過去に何があったのかを知り、今があるのはどうしてかを考える上でとても貴重な場所を回るコースですので、今後「千駄ヶ谷〜新宿」コースを開催するときには、是非ご参加ください。

歩き旅応援舎の古地図散歩は、1〜2か月に1回くらいの割合で繰り返し開催しています。毎月半ばころに翌月の予定を公表していますので、今後に予定については歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

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2015年02月22日

2月21日 古地図散歩に行こう!江戸城外堀3

江戸時代の古地図を見ながら歩けば普通の町に眠っていたその町の歴史や文化が見えてくる歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、2月21日の午前中は「江戸城外堀3」のコースを歩いてきました。

このコースは江戸城外堀約15kmを5回に分けて一周するもので、3回目となる今回は溜池山王駅から四ツ谷駅まで歩きました。

溜池山王駅を出ると、目の前は赤坂です。赤坂には歴史上の有名人が住んでいました。

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国立国会図書館デジタルコレクションより


勝海舟です。彼は結婚して独立した貧乏時代、幕府内で出世して屋敷を与えられてから幕末まで、徳川慶喜に従って静岡に引っ越したものの明治5年に新政府に呼び出されて東京に住むようになってから死ぬまでの3度にわたって赤坂に住んでいました。

この古地図散歩で使っているのは幕末ころの地図なのですが、それには勝海舟(勝麟太郎)の屋敷が氷川神社の隣に描かれています。

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その場所は現在マンションになっていますが、その一角に「勝海舟邸跡」と書かれた表示が立てられています。

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なお、勝海舟が明治5年から住んだ場所は、この地図の上の方に「柴田松之丞」と描かれているところです。現在は高齢者施設となっていて、敷地のはずれに碑があります。

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ところで勝海舟邸の隣に描かれている氷川神社、徳川慶喜が享保15年(1730)に建てた社殿が今も使われています。およそ300年も前に建てられただけでもすごいのに、関東大震災にも戦争の空襲にも被害を受けずに残っているのがまたすごいです。

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再び外堀の跡に戻ると、次の門は建て替え中の赤坂プリンスホテルの前にその跡があります。「赤坂見附」の駅名の由来ともなった赤坂門です。江戸城の門は、その上の櫓から敵を見つけるというところから「見附」とも呼ばれているのです。

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石垣の一部が残っているだけですが、よく見れば門の柱の形に石垣の角が削られているなど、ここに門があった形跡が生々しく残っています。

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さて、現在ホテルニューオータニがあるところは、江戸時代には彦根藩井伊家の中屋敷がありました。「■井伊掃部頭」と描かれているところです。この井伊家屋敷は明治時代に伏見宮邸になり、その後実業家の大谷米太郎が買ってホテルとなりました。現在のホテルニューオータニの庭園は、伏見宮邸時代を通じて受け継がれてきた井伊家の庭園なのです。

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ホテルニューオータニの庭園から喰違見附の跡へと出ます。道が2回にわたって折れて喰い違いになっていることから「喰違見附」、石垣を使わず土塁だけで造られた江戸城外堀最古の門です。

ここから四ツ谷まで江戸城外堀の内側に築かれた土塁の上を歩いて行きます。上の地図では外堀の上側に描かれた緑色の部分です。土塁上には江戸時代から生えているともいわれている松の巨木もあります。

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四ツ谷門は現在の四ツ谷駅の入口付近にありました。現在でも駅入口と道一本を挟んだところに、石垣の一部が残っています。写真の奥の方に写っているのがその石垣です。

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実は駅入口の建物がある場所にもかつては石垣がありました。いや、今もあると言った方がいいでしょう。駅入口の下には、今でも石垣が埋まっているのです。その証拠に・・・

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駅入口の周囲をよく見ると、埋まっている石垣の一部が露出しています。

次回の「江戸城外堀4」コースでは四ツ谷駅から水道橋駅まで、江戸城の西側にあった台地と谷を巧みに利用して造られた外堀の様子などを見て歩きます。

今回のコース
溜池山王駅→勝海舟邸跡→赤坂氷川神社→赤坂門跡→弁慶橋→井伊家屋敷跡日本庭園→喰違見附跡→紀尾井坂→清水谷公園→江戸城の土塁→心法寺→四ツ谷門跡→四ツ谷駅

歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

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