2015年03月22日

3月22日 古地図散歩に行こう!田町〜赤坂

古地図を見ながら東京の町を歩き、江戸時代の町の様子から現在の東京の成り立ちをさぐる歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、今回は田町駅前から赤坂見附駅まで歩いてきました。

明治時代以降埋め立てられるまで、田町駅付近はJRの線路の東側まで海でした。現在は海岸線が2km先まで遠ざかりましたが、今も田町駅近くには海があった名残があります。

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「薩州クラヤシキ」と書いてある辺りに田町駅があります。海沿いに描かれている「鹿島明神」は、嵐の日に常陸の鹿島神宮が海に流失し、この地に流れ着いたのが始まりと伝わる神社です。海から引き揚げて安置しましたので、海岸に海を向いて建てられていました。

その鹿島明神は、現在は御穂鹿嶋神社となり、江戸時代と同じ場所にあります。

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社名の「御穂」とは、ここから北東方向にあった御穂神社を平成になってから合併したものです。2つの神社は宮司さんが同じだったので、建て替えを機に合併されたのです。

御穂神社は三保の松原にある御穂神社から勧請した神社といわれています。いずれも神社の社伝なので鵜呑みにはできないのですが、鹿島にしろ三保にしろ海に近い地ですので、田町に住んでいた漁民など海の民が祀ったことが考えられます。

その田町の漁民が海で獲れた魚を陸揚げしていた場所は「雑魚場」といわれていました。御穂鹿嶋神社とJRの線路の間の一帯が雑魚場の跡です。船の形をした碑が建てられています。

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田町駅前を出たら、北にある古川に向かいます。この古川は上流部は渋谷川、下流部は金杉川と呼ばれています。この古川は徳川綱吉の時代に白金御殿へと将軍の御座船が行くために整備されました。そのときの河川工事に従事した人足の十番組が宿舎があった、あるいは十番組が工事した場所が「十番」の地名の由来です。ただし江戸時代の「十番」は現在の麻布十番商店街があるところからは少し離れた場所です。

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さて、古川では幕末に暗殺事件が2件起きています。まずは中橋のたもとでアメリカ公使館の通訳ヒュースケンが暗殺されています。

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暗殺現場は、この橋の向こう側に当たります。

もう1件の暗殺事件は、一ノ橋で起こりました。殺されたのは清河八郎、暗殺者は佐々木只三郎です。こちらがその一ノ橋。

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古川の北側に出ますと、急坂が待ち構えています。狸穴坂です。狸の穴と書いて「まみあな」と読みます。

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狸穴坂は、江戸時代の地図とことなり直線ではなくゆるくうねった坂道です。

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この坂道の上が麻布台です。尾根部分を外苑東通りが通っていますので、この通りを渡ると再び下り坂となります。この傾斜部に長州藩毛利家の中屋敷がありました。

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「松平大膳大夫」と書いてあるところが毛利家の中屋敷です。現在NHK大河ドラマで「花燃ゆ」を放送していますが、あの長州藩の屋敷があったところです。

この屋敷は幕末に長州藩が起こした蛤御門の変により、幕府に没収されてしまったところです。その後10日ほどの短期間で屋敷がすべて解体されてしまい、その後は茶畑となりました。しかし明治維新後はこの場所は陸軍用地となり、歩兵第一連隊→敗戦により米軍に接収→返還後は防衛庁→防衛庁が市ヶ谷に移転後東京ミッドタウンという変遷をたどりました。

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東京ミッドタウンの隣にある檜町公園は、毛利屋敷の庭園の跡地です。歩兵連隊、米軍用地の時代を通じて庭園はのこり、現在は都会のオアシスの役割を果たしています。

この檜町公園の北辺が谷底にあたり、そこから急激な坂道を上りますが、その坂道のふもとにあるのが報土寺です。史上最強の力士の雷電為右衛門の墓があります。

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報土寺前の激烈な坂道である三分坂をのぼると、今度はまたまた下り坂。港区は坂道が多いです。

この円通寺坂をくだると赤坂の一ツ木通りに出るのですが、この坂の東側は江戸時代、寺と町屋を挟んで広島の浅野家の屋敷がありました。「松平安藝守」と書かれている場所です。

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ここは明治時代には近衛歩兵第三連隊となりました。坂道を下りながら道の端をよく見ると、ところどころに「陸軍省所轄」などと書かれた領界標が残っています。

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一ツ木通りに出ました。赤坂見附の飲食店街の中心地です。たくさんのお店があり、大勢の人が歩いています。そんな中に、江戸時代からつづく古いお寺がひっそりとあります。

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浄土寺です。赤坂のお地蔵さんと呼ばれた青銅製の地蔵尊蔵があります。江戸時代中期の享保4年(1719)に地蔵坊正元というお坊さんが造ったものです。

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地蔵坊正元は江戸六地蔵を造った人として知られています。日本橋から始まる6つの街道の江戸の出口に、青銅製の6体の地蔵尊の大仏を造ったのです。ここにある浄土寺の地蔵尊蔵は、江戸六地蔵の弟分とでもいうものでしょうか。

浄土寺から赤坂見附の駅まで歩いて、今回の古地図散歩は解散となりました。

今回のコース
西郷・勝会見の地→薩摩藩上屋敷跡→柳神社→中之橋→狸穴坂→五大山不動院→檜町公園→報土寺→円通寺坂→浄土寺→赤坂見附駅

歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

使用古地図:人文社復刻版江戸切絵図コピーライトマークこちずライブラリ


ラベル:港区 田町〜赤坂
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2015年03月21日

3月21日 古地図散歩に行こう!江戸の水路跡 日本橋編

江戸時代の古地図を見ながら東京を歩くと今まで気付いていなかった町の魅力を発見する、歩き旅応援舎の町あるきイベント「古地図散歩に行こう!」、3月21日の午後は「江戸の水路跡 日本橋編」コースを歩いてきました。

江戸時代の江戸は、縦横に水路が走る“水の都”でした。

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江戸時代の古地図「尾張屋板江戸切絵図」を見ながら、これら幾多の水路の跡をたどるのが、古地図散歩の
「江戸の水路跡」シリーズです。

今回は日本橋地区(日本橋の北側、人形町・蛎殻町の付近)を中心に、江戸の水路の跡をめぐっていきます。

日本橋地区にあった水路は、その多くが江戸で消費される物品を荷揚げするためのものでした。江戸時代の江戸の人口は100万人もいたといわれています。世界最大の都市です。この巨大都市で人が生活するためには、多くの生活必需品と食料が必要でした。さらにはそれらを買うための経済力も。

それらを支えていたのが日本橋の水路群なのです。ここでほとんどの生活必需品と食料の荷揚げが行われ、荷揚げやその後の運送、販売などで労働力が必要とされ、それらが庶民の経済力の一端を担っていたのです。

まずは浜町堀。これは江戸の町ができた当初に隅田川から流れ込んでいた入堀(船着場を設けるための行き止まりの水路)を、元禄時代に北方に延長して外堀につないだものです。

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跡地は緑道や公園となり、特に隅田川への合流部分は箱崎ジャンクションのランプウェイとして使われています。

弁慶像があるのは、人形町付近は江戸時代に中村座、市村座という江戸の三大芝居小屋の2つまでがあり、芝居のメッカだったためです。いまも近くには明治座があります。

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箱崎ジャンクションを含む高速道路になっている場所は、江戸時代には箱崎川があったところです。永久橋、箱崎橋が架かっているのが箱崎川です。

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高速道路下をくぐると、かつて川だった時代の護岸の跡と思われるコンクリートの塊が歩道にあります。

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また、江戸時代の地図をよく見ると、永久橋のたもとに稲荷神社が描かれていますが、この永久(ながひさ)稲荷神社は住宅に埋もれそうになりながらも現在も同じ場所にあります。

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日本橋側の南側にある霊岸島へと行きます。そこには江戸時代の前期に豪商河村瑞賢によって掘られた新川がありました。一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋と三本の橋が架かっている川が新川です。

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この写真の道路左側の区画が新川の跡です。新川には主に酒の荷揚が行われていました。かつては新川沿いに酒問屋の蔵が並んでいたそうです。現在も国冠、金盃などの酒造会社の事務所があります。

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霊岸島には越前福井藩松平家の屋敷もありました。2代将軍秀忠の兄の家系の藩ですので、大きな屋敷でした。その屋敷の周りを廻っていた堀を、越前堀と呼んでいました。

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越前堀は今はありませんが、建設工事で発掘された越前堀の護岸石垣が越前堀公園に置かれています。

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再び日本橋側の北側に戻ります。さきほど見た箱崎川の地図をもう一度見てみましょう。川沿いには行徳河岸という船着場があり、行徳へと荷物や人を運ぶ船が発着していました。その行徳河岸の横から始まる細い水路があります。これが稲荷堀です。

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稲荷堀と書いて「とうかんぼり」と読みます。行徳河岸から稲荷神社(現在の小網神社)の近くまでつづいていたことが名の由来です。現在、稲荷堀の跡のほとんどは、ほぼ一直線の道路「とうかん堀通り」となっています。

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この稲荷堀がおわった辺りの日本橋側から掘り込まれた2本の水路があります。東側の水路を堀江町入堀または東堀留川、西側の水路を伊勢町川または西堀留川と呼んでいました。

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この2本の水路はいずれも行き止まりの入堀です。ここは荷揚場として専用に使われていた水路なのです。江戸時代の様子が、「江戸名所図会」に絵付きで載っています。

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船着場には船がびっしり、水路沿いには蔵がみっちり並んでいます。この2本の水路では、木材、米、塩、乾物、鰹節、海草、傘、蓑、線香、麻などありとあらゆる生活物資と食料が荷揚げされていたのです。

現在は2つの水路ともに埋め立てられて、水路の跡の中心3分の1は道路になり、その他の部分は住宅やビルになっています。しかし当時のものも残っており、たとえば道の隅にはビル工事で発掘された船着場の石垣石が置かれていたりするのです。

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こうして日本橋地区の水路の跡をたどりながら、その痕跡をいろいろなところに発見したり、江戸時代の遺物を見たりしながら日本橋まで歩いて今回の古地図散歩は終了となりました。

今回のコース
人形町駅→元吉原堀跡→浜町堀跡→水天宮→永久橋跡→崩橋跡→湊橋→新川跡→霊巌橋→鎧の渡し跡→思案橋跡→小網神社→東堀留川跡→親父橋跡→堀留公園→西堀留川跡→江戸橋→魚河岸跡→日本橋

歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

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3月21日 古地図散歩に行こう!江戸城外堀5

江戸時代の古地図を見ながら江戸城外堀の跡を歩く「古地図散歩に行こう!江戸城外堀」の5回シリーズ、今回はその5回目、水道橋駅前から外堀の終点の隅田川への合流点まで歩きます。

水道橋駅の北側を神田川が流れています。この神田川は、安土桃山時代に江戸にやってきた徳川家康が、それまで江戸城下を流れていた平川の流れを北側に付け替えて隅田川に流し込んだもので、江戸城北方の守りを固めるための外堀の役割を兼ねていました。

水道橋とはその外堀(神田川)に架けられた橋の名前です。すぐ下流に神田上水の樋が架かっていたことが名の由来です。

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「東都名所御茶ノ水」(国立国会図書館デジタルコレクションより)


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神田上水は昭和8年に廃止され、上水樋も今はありませんが、その場所には碑が建てられています。

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ここから外堀沿いに御茶の水まで歩いて行きます。御茶の水は江戸時代によい水が湧く井戸があり、その水で2代将軍徳川秀忠がお茶を飲んだといわれていることが由来です。この御茶の水には江戸時代には橋はなく、外堀の土塁上に神社があっただけでした。

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太田姫稲荷神社です。太田道灌が娘の疱瘡快癒を祈って建てた神社です。現在、その場所には木に「太田姫神社元宮」と書かれた木の札とお守りのケースがぶら下げられているだけです。

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太田姫神社はどうなったのかというと、御茶ノ水駅建設のため駿河台の坂の下に引っ越しています。

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御茶ノ水駅の北側には、湯島聖堂と神田神社があります。湯島聖堂は幕府の儒官だった林家の邸内にあった孔子廟、神田明神として知られる神田神社は大手町の平将門の首塚にあった神社が移転してきたもので、江戸時代から今の場所にあります。

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湯島聖堂は入徳門、木塀、水盤舎が江戸時代の築、本堂に当たる大成殿は関東大震災で焼失後に江戸時代のものと同じ形で伊東忠太の設計で復元されたものです。

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一方の神田神社。高台の上にあります。東側は崖になっていて、この下に住んでいたのが「明神下の親分」こと銭形平次です。

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神田神社は由緒の古い神社なのに、境内にガチャがあります。

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ラインスタンプまで販売しています。

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伝統を守りつつも守旧にこもらないこういう攻めの姿勢、私は好きです。

さて、御茶の水から外堀沿いに東に向かうと、そこには江戸時代、筋違門がありました。

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その内側は火除地として広場になり、そこの8本の道が来ていることから「八ツ小路」と呼ばれていました。

その場所に明治時代の終わりころ、万世橋駅が建てられました。

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ありし日の万世橋駅(国立国会図書館デジタル化コレクションより)


煉瓦造りの立派な駅でしたが、駅舎が関東大震災で焼失し、その後も近くにある秋葉原駅と神田駅に客を取られて利用者も少なく、昭和18年に「休止」という名目で廃駅となりました。

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しかし一昨年、この万世橋駅の遺構を利用して商業施設「mAAch ecute」がオープンしました。それに伴って、現存するホームへ至る駅の遺構へも入れるようになりました。

まずはmAAch ecute前の道路下から発掘された万世橋駅の遺構。地面のガラス越しに見ることができます。

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そしてホームへと向かう階段。この階段は明治時代の終わりに造られたものです。御影石を使った豪華な階段です。

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階段を上ると万世橋駅のホームの跡に出ます。両側にはガラスが設置してありますが、間近に中央線の車両が走るのを見ることができます。

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万世橋駅を出て、さらに東へとすすみます。江戸時代には浅草橋にかけて外堀の土手に柳が植えられ、「柳原土手」と呼ばれていました。

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浅草橋にあった浅草門は、江戸城外堀最後の門となります。碑はなぜか外堀の北側、台東区側にありますが、門自体は南側の中央区側にありました。

この浅草橋の南側にある交番近くに、このような石が置かれています。

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これは外堀の護岸の石垣に使われていた石です。発掘されたものが1つだけ置かれているのです。

浅草橋からは、外堀に多くの屋形船が浮かんでいます。江戸時代にも船宿の多かったところです。外堀沿いに歩いて行くと、すぐに柳橋に着きます。

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外堀が隅田川に流れ出るところに架けられた柳橋が、江戸城外堀の古地図散歩の終点となります。目の前には広々とした隅田川、右手には両国橋が見えています。

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5回にわたって江戸城外堀を一周した江戸城外堀シリーズはこれで終了です。歩き旅応援舎では江戸城外堀シリーズを定期的に繰り返して開催しています。次回は5月ころに行う予定です。

今回のコース
水道橋駅→上水樋の碑→大砲鋳場跡→御茶ノ水の碑→大久保彦左衛門屋敷跡→小栗上野介屋敷跡 →太田姫稲荷神社→筋違見附跡→万世橋駅跡→柳森神社→関東郡代屋敷跡→浅草見附跡→柳橋

歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

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