2015年05月23日

5月24日 古地図散歩に行こう!千駄ヶ谷〜新宿

江戸の古地図を見ながら歩くと東京の町のルーツが見えてくる歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、5月24日は「千駄ヶ谷〜新宿」コースを歩いてきました。

新宿区は文化財の宝庫です。今回ちょっとだけ渋谷区を歩きますが、ほとんどは新宿区内を歩いていきます。

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まずは千駄ヶ谷の鳩ヶ森神社から。千駄ヶ谷の地名の由来については千駄、つまり1000匹の馬に載せるだけの稲が穫れた谷などという説があります。ここにある鳩ヶ森神社は創建がわからないくらい古い神社です。

江戸時代の地図に富士山が描かれていますが、その富士塚は今も境内にあります。

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実際に登れる富士塚は、最近では珍しくなりました。

鳩ヶ森神社から新宿御苑の周囲を南→東→北というようにめぐっていきます。新宿御苑は江戸時代の地図には高遠藩内藤家の屋敷として描かれています。

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現在の御苑の形とだいぶ異なっているのはご愛敬です。内藤家は藤原氏の一族ですので、藤原氏が信仰していた奈良の多武峰にある談山神社から勧請して邸内に多武峯内藤神社を建てました。

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多武峯と書いて「とうのみね」・・・、普通は読めません。日本語に強いはずのATOKも変換してくれませんでした。

内藤家は3万石の大名なのですが、石高に不相応な広い屋敷を持っていました。「白馬伝説」も生まれたようです。

内藤家初代の内藤清成は徳川家康のお気に入りの家臣で、家康から「この原野を馬で一気に走り回れただけの屋敷地をやる」と言われて、白馬を駆って一周してこの広大な屋敷地を手に入れたというのです。家康の前に帰ってきたとき、白馬は力尽きて死んでしまったというのが「白馬伝説」です。

多武峯内藤神社の境内には、白馬を埋葬したと伝わる駿馬塚があります。ただし、この神社は内藤家の屋敷が明治時代に皇室の植物園になったときに現在地に移転してきていますので、駿馬塚といっても石碑があるだけです。

甲州街道(国道20号)に出ると、ここには江戸時代に四谷大木戸と水番所がありました。

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四谷大木戸は現在の四谷四丁目交差点、水番所は四谷区民ホールのある辺りです。

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水番所跡の碑は巨大すぎて塀だと思っている人も多く、なかなか気付いてもらえないようです。

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ここから玉川上水が地下にもぐりますので、水番所の番人たちはゴミなどが流れ込まないように見張っていたのです。

ここから北東側にはお寺がいっぱいあります。四谷の寺町です。

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四谷の寺町はこの地図に載っている現在の愛住町のものと、もっと南の須賀町と2箇所ありました。そのため今回行った愛住町の寺町を「四谷北寺町」ということもあります。

いまもたくさんのお寺が残っています。この写真は上の地図の右の方にある西迎寺です。阿弥陀様の大仏があります。江戸時代前期の旗本伏見勘七郎が寄進したものです。

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北寺町でいくつかのお寺をめぐったら、靖国通りを西へと進みます。ここに正授院と成覚寺があります。2軒とも江戸時代からあったお寺です。

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この地図の下方のグレーの部分が甲州街道最初の宿場だった内藤新宿、その北側に成覚寺が描かれています。

成覚寺には旭地蔵と呼ばれている石地蔵があります。

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江戸から近すぎる内藤新宿では宿泊客が少なかったため、次第に遊郭化していきました。その内藤新宿の遊女と心中した客を弔うために建立された石地蔵です。台石に男女で一組になった名前が7組刻まれています。

この旭地蔵は、現在新宿三丁目の駅がある辺りにありました。成覚寺は内藤新宿の遊女の投げ込み寺で、身寄りのない遊女が葬られた場所です。そのため道路拡張にともなって旭地蔵も成覚寺に移されてきたのです。

ちょっと重い話になりましたので、おまけです。

この日は新宿の花園神社のお祭りでした。そこでお神輿にも遭遇しました。

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豚もお祭りを見に来ていました。

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今回のコース
北参道駅→鳩森八幡神社(富士塚)→新井白石終焉の地→千駄ヶ谷駅前→伝沖田総司逝去の地→多武峯神社→四谷大木戸跡・玉川上水水番所跡→田安鎮護稲荷神社→小泉八雲旧居跡→自證院→禿坂→茗荷坂→正受院→成覚寺→新宿三丁目駅


歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

使用古地図:人文社復刻版江戸切絵図コピーライトマークこちずライブラリ


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2015年05月06日

5月6日 古地図散歩に行こう!江戸の水路跡 日本橋編

見慣れた普通の町も江戸時代の古地図と見比べながら歩けばその魅力を発見する歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、5月6日は「江戸の水路跡 日本橋編」コースを歩いてきました。

現在は住宅地とオフィス街が混在する日本橋地区、江戸時代には「水の都」ともいうべき縦横に水路が張りめぐらされた場所でした。そしてこれらの水路群には、江戸の町にとって重大な役割があったのです。

それらほどんどの水路は今は埋め立てられています。しかし、江戸時代の古地図を見ながらかつて水路があった場所に行ってみると、様々な痕跡を見出すことができます。

例えばここ。箱崎川のあった場所は、現在は首都高速の箱崎ジャンクションのになっていますが・・・

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高速道路沿いの歩道上には、かつての川縁にあったコンクリート製の堤防の一部が残されているのです。

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こんな形で水路の痕跡を探し求めるのが今回の古地図散歩です。とりあえずは隅田川沿いに出てみます。

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これは江戸時代の永代橋の跡、石を組み合わせた碑があります。永代橋は5代将軍徳川綱吉の50歳を記念して架けられた橋です。江戸の古地図を見てみると・・・

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現在日本橋川の右岸にある永代橋は、江戸時代には左岸にあったことがわかります。ちなみに永代橋のたもとにあった高尾稲荷は、場所を移して現在も存続しています。

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現在の永代橋


日本橋川の右岸、現在永代橋が架かっている霊岸島には、越前福井藩松平家の屋敷がありました。その屋敷の周囲を取り巻いていた堀が「越前堀」です。

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越前堀の一部の跡地に造られた越前堀公園には、越前堀の護岸の石垣の石が置かれています。

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日本橋川の北側に戻ってきて、かつて稲荷堀(とうかんぼり)と呼ばれていた水路の跡を歩きます。

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現在、稲荷堀の跡地は道路になっています。

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この稲荷堀の先端の先には、小網町がありました。現在小網神社がある辺りです。

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この小網神社はもともとお稲荷様なので、「稲荷堀」の名も小網神社が由来だという説もあります。(異説もあります)

この小網神社は第二次大戦の空襲にも焼け残った昭和初期の木造の社殿と神楽殿が残っている神社です。さらには狛犬も変わっていまして、首から鈴を提げています。

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この小網神社の裏側にあたる場所、ここには江戸時代に「U」字型の水路がありました。

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この2本の水路は、それぞれ堀江町入堀、伊勢町堀と呼ばれていまして、船着場があった場所でした。こここそが江戸の町、当時100万人の人々が住んだ世界最大の都市だった江戸を維持するために、もっとも重大な役割を担っていた場所なのです。

この2本の水路に設けられた荷揚場(河岸)において、木材、米、塩、その他の食材や生活必需品などが荷揚げされ、江戸に暮らす100万人の人々の生活を支える物資供給と経済力の要となっていたのです。

これらの水路は今は埋め立てられてしまいましたが、その痕跡は残っています。たとえば・・・

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この道は水路を埋め立てたその中心部分に当たりますが、江戸時代の水路そのままに左にカーブしています。

また、この公園は・・・

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堀江町入堀に架けられていた和国橋の南側を埋め立てて、その跡地をそっくり公園化したものです。この公園の幅が、かつての水路の幅そのものなのです。

この水路の荷揚場の様子を描いた「江戸名所図会」(国立国会図書館蔵)がこれです。

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江戸名所図会より(国立国会図書館蔵)


ここに描かれている荷揚場の石垣の石が、ビル建設で発掘されて歩道の橋に置かれています。

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さて、江戸時代には1日で1000両の金が動くと言われていた場所が3つありました。遊郭の吉原、芝居小屋が連なっていた堺町、そして日本橋の魚河岸です。

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江戸名所図会より(国立国会図書館蔵)


江戸時代の江戸橋と日本橋の間にある日本橋川の北岸が、日本橋の魚河岸でした。

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ここにあった魚河岸(魚市場)は大正時代までつづいていましたが、関東大震災で壊滅し、現在の築地市場へと移行しました。

日本橋の袂には、魚河岸跡の乙姫像があります。

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今回の古地図散歩は、日本橋の乙姫像で終了です。

今回のコース
人形町駅→元吉原堀跡→浜町堀跡→水天宮→永久橋跡→崩橋跡→湊橋→新川跡→霊巌橋→鎧の渡し跡→思案橋跡→小網神社→東堀留川跡→親父橋跡→堀留公園→西堀留川跡→江戸橋→魚河岸跡→日本橋

歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

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2015年05月05日

5月5日 古地図散歩に行こう!江戸の水路跡 築地編

江戸時代の地図を見ながら普通の町に眠る過去の痕跡をさがし、江戸から東京への町の成り立ちをさぐる歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、5月5日の午後は「江戸の水路跡 築地編」コースを歩いてきました。

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築地は江戸時代前期に木挽町先の隅田川河口部の海を埋め立てて造られた埋立地です。そこへ海を埋め残す形で本願寺を取り巻くように四角い水路ができました。これを築地川といいます。この築地川からは何本かの川が隅田川河口部につながっていました。今回は築地川とこれら隅田川河口部につながっていた水路の1つ鉄砲洲川の跡をたどります。

実際に築地に行ってみて、「こんなところに水路があったのか?」と疑問に思うところですが、江戸時代の地図と見比べてみると、例えば今回のコースの出発点である東銀座駅の5番6番の出口の目の前にある首都高速道路は、このように窪んだところにあります。

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この凹みこそが、築地川の跡なのです。昭和30年代の高速道路建築に伴い築地川は水が抜かれ、現在のような姿になったのです。ちなみにこの写真の左側に写っている高速道路の側壁ですが、築地川時代の護岸の石垣がそのまま使われています。

またあるところでは、築地川が曲がっていた部分そのままの形で公園となっています。

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川の跡が凹みとして残っているだけではありません。築地川跡のあちらこちらに、かつて架かっていた橋の一部が今も残っているのです。

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ここでいったん築地川跡から離れ、鉄砲洲川の跡をたどってみます。安政時代に結ばれた通商修好条約によって、江戸に外国人居留地が築かれることとなりました。そこで幕府は築地を居留地用地に決めたのですが、実際に居留地ができあがる前に江戸時代が終わってしまいました。

これを引き継いだのが明治政府で、鉄砲洲川の両側は通商修好条約が撤廃された明治32年まで外国人居留地となりました。当時は、この場所に外国公使館、商館、教会などが建ち並んでいたそうです。

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こうして居留地のできた築地には、欧米から最新の技術などが流れ込んだことから、日本での発祥の地が多くあります。活字印刷、靴、電信などの発祥の地はいずれも築地にあります。

そして今では当たり前のことですが、指紋には2つと同じものがありません。実はこれが発見されたのは築地なのです。築地の外国人居留地に住んでいた医師で宣教師のヘンリー・フォールズが、縄文土器の指で付けた紋様や日本での指印の習慣を見て指紋の研究を始め、その結果として発見したのです。

ヘンリー・フォールズ宅跡には「指紋研究発祥の地」の碑があります。

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フォールズ以外にも築地には他にも大勢の宣教師が住んでおり、彼らが開いたミッション・スクール発祥の地の碑もたくさんあります。

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明治学院大学


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女子聖学院


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青山学院大学


こうして外国人居留地として栄えた鉄砲洲川沿岸ですが、鉄砲洲川は関東大震災の復興事業の一環として昭和4年に完全に埋め立てられて道路になってしまいました。このとき、川の跡地に下水道管が埋められました。かつて鉄砲洲川が隅田川河口部に流れ込んでいたところに行ってみると、「下水管埋設位置」のプレートが設置してあります。

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そして隅田川に出てみると、そこには下水管の先を見ることができます。

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築地川の跡に戻ります。築地川の跡に囲まれるようにして築地本願寺があります。現在のインド寺院風本堂は、関東大震災で倒壊した後に建てられたものです。

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本願寺周囲の大谷石の塀とともに国の重要文化財に指定されています。

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ちなみに明治時代に撮影された築地本願寺はこちら。

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いたって普通の日本風寺院でした。

このように関東大震災は、築地に大きな変化をもたらしました。鉄砲洲川の埋め立て、本願寺の建て直しのほかにも、魚市場が日本橋から築地に移転してきたのも関東大震災が契機です。

この江戸時代の古地図に書かれた本願寺境内の下側半分とその周辺が、現在築地の場外市場となっています。いつもは平日週末を問わず観光客で混雑している場外市場ですが・・・

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ゴールデンウィークも終盤のこの日は閑散としていました。

この築地場外市場にも、築地川の跡が残っています。護岸の石垣や、橋の一部です。

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さて、そろそろ築地川を一周するころです。最後に高速道路に架かっている采女橋、これは江戸時代の古地図には「二ノ橋」と描かれています。

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ここの欄干に三角屋根の建物がデザインされています。

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これは築地ホテル館という外国人居留地にあったホテル兼交易所です。築地外国人居留地のシンボルとして明治元年に建てられた洋風建築でしたが、たった5年で火事で焼失してしまいました。

ありし日の築地ホテル館が浮世絵に描かれています。

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この橋の隣の橋のたもとに、出発点の東銀座駅があります。「江戸の水路跡 築地編」は、東銀座駅から築地を一周して再び東銀座駅に戻ってきたところで終了です。

今回のコース
東銀座駅→築地川跡→万年橋→桂川甫周屋敷跡→合引橋跡→新富座跡→築地川公園→軽子橋跡→赤穂浅野家上屋敷跡→慶應義塾発祥の地→あかつき公園→佃島渡船場跡→備前橋跡→築地本願寺→波除稲荷神社→海軍医学校跡→東京盲唖学校跡→東銀座駅

歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

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