2015年09月26日

9月26日 古地図散歩に行こう!江戸城外堀1

江戸時代の古地図を見ながら東京のルーツを探る「古地図散歩に行こう!」、9月26日は「江戸城外堀1」コースを歩いてきました。

全長15キロにおよぶ外堀は、江戸の町を時計回りの渦巻き型、ちょうど「の」の字のようにめぐっていました。

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この外堀は参勤交代が始まる前年、寛永13年(1636)に完成したもので、外堀の内側は原則的に大名・旗本・御家人などの武家屋敷となりました。

町人地は一部に定められ、寺院はほとんど外堀の外に移転しました。こうして江戸の町づくりの基礎となった外堀ですが、実は明治以降の町づくりにも大きな影響を与えているのです。

たとえば外堀の多くの部分では、その中央部が区の境となっています。また、中央線、総武線も外堀の中に敷かれていますし、首都高速道路は外堀の上やその跡地に造られたものがほとんどです。

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高速道路の出口も外堀に架かっていた橋の名前が多いです。

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このような高速道路の出口の1つ、西神田出口には堀留橋があります。

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この「堀留」とは、外堀の一番端、つまり起点を表しています。

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ここから今回の古地図散歩は始まります。これより5回にわたって外堀を一周していくのです。

しばらく歩くと、外堀最初の門があった雉子橋に出ます。

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雉子を飼う小屋がそばにあったから雉子橋です。雉子橋門の場所では外堀と内堀が近接していて、その間を短い堀でつないでいました。その短い堀の上に架けられていたのが江戸時代の雉子橋です。

この写真に写っている高速道路の下の部分が、今は閉じられている外堀と内堀をむすぶ堀の跡です。

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次の門の一橋門の跡には、門の石垣の一部が残っています。

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この付近の外堀では、江戸時代に築かれた石垣の護岸が今も使われています。

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一橋門の内側にはすぐに平川門がありますが、平川門の前には門の石垣の石を使って造られた太田道灌の碑があります。

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上に置いてあるアクエリアスは、皇居ランナーのものです。勝手に飲んではいけません。

石垣の石はいたるところにあります。外堀沿いの公園にあるイスも、外堀の石垣の石を再利用したものです。

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外堀沿いには、石垣ばかりではなくて妙なものもたくさんあります。

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こうして石垣や“妙なもの”を探しつつ歩いていると、このようなビルがありました。

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ビルの名前は外堀沿いの荷揚場であった「鎌倉河岸」から来ています。

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その先の交差点には「竜閑橋」の名が。

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竜閑橋は、外堀と隅田川を結ぶ運河の入口に架けられていた橋でした。

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その場所の近くの小公園内には、大正時代に造られた竜閑橋の一部が残っています。

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現在日本銀行がある場所は、江戸時代には金座と舘市右衛門の屋敷などがあった場所です。

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その向かいには常盤橋門があり、以前は明治時代に常盤橋門の石垣の石を再利用して造った常盤橋がありました。

ところがその常盤橋、東日本大震災で損傷し、現在は修復工事中です。

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橋を構成していた石材はすべて取り外されて、もはや橋の形態をなしていません・・・。

さらに進んで呉服橋門の内側に、江戸時代には北町奉行所がありました。

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東京駅の駅前再開発で新たなビルを建設したとき、この場所から北町奉行所の遺構が発掘されました。

その遺構の石垣が、地上部分に再現されています。

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また、再開発が始まる前は、東京駅の前を通る外堀通り沿いに「北町奉行所跡」の黒い石でできた碑がありました。

大丸などの新しいビルができてみると、その碑はどこかに消えていました。どこへ行ったんだろう???

こんなところにあった!


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移設するなら、もっとわかりやすいところにすればいいのに・・・。

こうして東京駅に到着しました。今回はここまで、つづきは次の「江戸城外堀2」コースで歩きます。


今回のコース
水道橋→滝沢馬琴旧居跡→俎板橋→雉子橋門跡→一橋門跡→平川門→神田橋跡→竜閑川・竜閑橋跡→金座跡(日本銀行)→常盤橋門跡 →一石橋→呉服橋跡→北町奉行所跡→東京駅八重洲中央口


歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

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2015年09月23日

9月23日 古地図散歩に行こう!日本橋稲荷神社めぐり

江戸時代の古地図を見ながら東京散策、すると観光地でもない普通の町が魅力的に見えてきます。歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、9月23日は「日本橋稲荷神社めぐり」コースを歩いてきました。

稲荷神社はおそらく日本で一番多い神社です。神社町や國學院大學の調査によると一番多いのは八幡様を祀る神社なのですが、それらは町中の小祠は含まれていませんので、これらを含めると間違いなくお稲荷さんを祀る神社がもっとも多いことでしょう。

それにしても、お稲荷さんほど身近にあふれていながら、お稲荷さんほどよくわからない神様はありません。

お稲荷さんには2系統あり、京都市伏見区の伏見稲荷神社系のものと、愛知県豊川市の豊川稲荷系のものとあるといわれています。このうち「豊川稲荷」と呼ばれているところは妙厳寺という曹洞宗のお寺ですので、こちらのお稲荷さんは仏教の神様ということになります。

一般に伏見稲荷系の稲荷神は宇迦之御魂神(ウカノミタマノミコト)という穀物の神様です。一方の豊川稲荷系の稲荷神は荼枳尼天(ダキニテン)という女神で、稲穂を背負って狐にまたがり、豊川稲荷のお坊さんの夢に現れたことから稲荷神と同一視されるようになりました。

ところが「稲荷神」という神様自体は、古事記・日本書紀などの日本神話に登場しないんですね。

宇迦之御魂神も荼枳尼天も、稲荷神と同一視(習合)されただけで、本来の稲荷神じゃないらしいんです。

それじゃ稲荷神の正体は?というと、どうやら大陸からの渡来人が連れてきた神様らしいのです。大陸で穀物や農業の神様だったものが日本にやってきたことで、日本神話や仏教の神様と習合することになったようです。

このようによく知っているようで実はよくわからない神様がお稲荷様なのです。

江戸時代の江戸の町には、このお稲荷さんを祀る神社が無数にありました。日本はもともと農業国なのでお稲荷さんを祀ることが多かったのですが、それが時代が進むにつれて商人も信仰するようになると商売繁盛の神様に、武士が信仰するようになると武運長久の神様になっていったりして、そうこうするうちに江戸の町はお稲荷さんだらけになってしまい、御利益も様々なものに変化していったのです。

中央区の日本橋川より北側の日本橋地区には、江戸時代からつづいているお稲荷さんがたくさんあります。それらのお稲荷さんは由緒も御利益も様々で、

今回のコースは小伝馬町駅が待ち合わせ場所だったのですが、駅のすぐそばにある小伝馬町の牢屋敷には今回は見向きもせず、すぐちかくにある稲荷神社へと向かいます。

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江戸城のことを別名千代田城ともいいますが、これは昔の地名から来ています。この付近が元々の「千代田」の地だったことが神社の名前の由来だとも、太田道灌の弟の千代田若狭守が建立したためだともいわれています。

この日はこんな具合に稲荷神社を20社めぐったのですが、とても全部は書ききれないので一部だけお見せします。

それにしても大型連休中の日本橋は静かです。

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こちらの三光稲荷も江戸時代からある神社です。

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近くにある堺町には中村座の芝居小屋があり、ここに出演していた歌舞伎役者の関三十郎が建立したので、「三十郎」が「三光」となったのが名前の由来ともいわれています。この神社の御利益はちょっと変わっていて、お祈りすると行方不明になった飼い猫が戻ってくるのだそうです。

近くにはこのような小さなお稲荷さんもあります。橘稲荷です。

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この神社は将軍の医師岡本玄冶の屋敷内にあったものだと伝わっています。岡本氏はもとの姓が橘だったのが名前の由来です。

そのためこの神社のすぐ横の路地は、江戸時代には「玄冶店」と呼ばれていました。

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「死んだはずだよ、お富さん♪」に出てくるあの「玄冶店」です。この路地を抜けて大通りに出たところには「玄冶店」の碑が建っています。

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元徳稲荷神社は、この地に屋敷のあった細川家の邸内にあったといわれています。

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以前は人工芝は敷かれていなかったような・・・。いつの間にやらきれいになっていました。

相変わらず人の少ない道を進みます。

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途中見かけたのは新築工事中の水天宮。だいぶできあがってきました。

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ただし水天宮は稲荷神社ではありません。近くにはこんな気になる物件も。

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さて、現在は埋め立てられてしまいましたが、かつては稲荷堀(とうかんぼり)と呼ばれていた水路がありました。すぐ脇に稲荷神社があったことからこう呼ばれるようになったようなのですが、その稲荷神社が今もあるらしいのです。

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下見のときに散々探し回って見つけたのが、この目立たない鳥居。

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ここを入った住宅の裏に、稲荷神社がありました。

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この他にも今はない江戸時代の水路はたくさんありまして、そういった水路の1つの水際に小網町があります。

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この小網町にあったのが小網神社です。上の地図に載っていないのは、もともとこの小網町にあったものの、江戸時代を通じて転々と移転を繰り返したためです。明治時代の初期に、もとあったこの地に戻ってきたのです。

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昭和4年に建てられた見事な木造の社殿があるのですが、この日は工事中で全体を見ることができませんでした。

さて、江戸時代の地図を見ると、日本橋魚河岸の近くから荒布橋をくぐって1本の水路が出ています。

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この地図の真ん中あたりに描かれている神社は常盤稲荷です。日本橋魚河岸の鎮守だったお稲荷さんです。

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日本橋の魚河岸が関東大震災後に築地に移転した後も、魚河岸で働く人たちから信仰され続けています。築地市場の中に水神社がありますが、実はこの常盤稲荷の遙拝所なのです。

この常盤稲荷は現在では少しだけ移転して、荒布橋から始まる水路を埋め立ててできた道路際に来ています。この水路は「L」字型に曲がって、現在コレド室町がある方に向かっているのですが、その水路の先端にも稲荷神社がありました。

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これが福徳神社です。日本橋地区で一番大きなお稲荷さんです。

江戸時代初期は大きな境内を持っていたらしいのですが、この付近はとにかく土地が足りない場所で、土と金が同じ価値とまでいわれていたところです。そのため江戸時代を通じてどんどん社地を削られてしまいました。

それが、近年の日本橋再開発に合わせて、昨年再び広い境内に新しい社殿が新築されました。

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いまや往年の姿を取り戻しつつある神社です。


今回のコース
小伝馬町駅→千代田神社→池洲神社→三光稲荷神社→富沢稲荷神社→橘稲荷神社→末廣神社→笠間稲荷神社→元徳稲荷神社→大廣神社→浜町神社→松島神社→茶ノ木神社→銀杏稲荷神社→明星稲荷神社→小網神社→常盤稲荷神社→出世稲荷神社→椙森神社→寶田恵比寿神社→福徳神社→三越前駅


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2015年09月20日

9月20日 古地図散歩に行こう!小石川・大塚

江戸時代の古地図を見ながら東京を歩くと、見慣れた普通の町が魅力的に見えてきます。歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、9月20日の午後は「小石川・大塚」コースを歩いてきました。

このコースの出発地点は茗荷谷駅、終了地点は護国寺駅です。直進すれば15分で終了してしまいますので、なるべく遠回りをして終着点に向かいます。

まずは春日通りを東に向かい、文京区立第一中学校へ。

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現在この中学校のある場所は、江戸時代には智香寺、光岳寺というお寺でした。この2軒のお寺、江戸時代初期に死去した徳川家康の母親於大の方を荼毘に付した場所に建てられたお寺です。

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ですからお寺の名前も、於大の方の法名「伝通院殿智香光岳大定禅尼」から来ています。

ここから住宅街の中を歩いて、桜の花見で有名な播磨坂へとやってきました。

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この「播磨坂」という名前、実は江戸時代にこの地に常陸府中藩松平播磨守家の屋敷があったことから来ています。この松平播磨守、「お待ちなさい!」で有名な水戸光圀の弟が初代の大名です。

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水戸徳川家の分家ですから、2万石の小さな藩であったにもかかわらず、大きな屋敷を持っていました。

この「お待ちなさい!」のセリフを言うときに、光圀がなぜ悪代官の屋敷の庭の茂みの中から忽然と現れたり、襖を突然「スパーン!」と開いて現れることができるのかについては、歴史学上未解明なところです。今後の研究が期待されます。

播磨坂を下ります。坂道があるということは、その先には川があったということです。播磨坂を下ったところにあった川は「千川」といいいます。玉川上水の支流にあたります。

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この千川に小石が多かったことが、「小石川」の地名の由来であるという説もあります。

千川は現在は暗渠化されて道路になっています。千川跡の道路を渡ると、今も江戸時代と同じ場所にある大雲寺、新福寺の間を通って東大植物園の前に出ます。

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「小石川植物園」とも呼ばれるこの植物園、江戸時代には幕府の小石川御薬園があった場所です。

もともと白山神社があった場所が、江戸時代前期に将軍の別荘となり、さらに幕府の御薬園(薬草を栽培するところ)となったのです。

古地図散歩では、この植物園に沿って歩きます。現在植物園の塀の新築工事中ですが、ここでは発掘調査も行われ、御薬園時代の石垣が発掘されています。

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平成27年6月撮影


植物園の西の外れには、旧東京医学校の建物があります。現在は東京大学総合研究博物館小石川分館として使われていますが、明治9年に建設された非常に古い建物で国の重要文化財に指定されています。

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ここから再び茗荷谷駅の方に戻ると、そこには教育の森公園があります。この公園は筑波に移転する前の東京教育大学(現筑波大学)の跡地なのですが、さらにその前、江戸時代には陸奥守山藩松平大学頭家の屋敷がありました。

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陸奥守山藩の初代も水戸光圀の弟です。水戸光圀の襖を「スパーン!」に関しては、上の記述をお読みください。

この公園の一角には、松平大学頭家の屋敷だったころの庭園が残っています。大きな桜の木があり、花の季節には春を独り占めしたように盛大に咲き誇ったことから「占春園」と名付けられていました。

その名庭園、占春園に一歩足を踏み入れると・・・

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そこは魔境!


こんな密林の中に誰かいる!

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なんと柔道の創始者嘉納治五郎さんでした。

東京教育大学の前身は、東京高等師範学校でした。嘉納治五郎は、この師範学校の校長を25年も勤めていたのです。

こうして密林の中をさまよううち、一つの石碑を見つけました。これが江戸時代の松平家の庭園だったころからある占春園の碑です。

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長い時間が経過したように感じましたが、占春園跡の密林をさまよっていた時間はほんの5分程度。再び人の住む世界に戻ってきて、休憩をはさんで護国寺方面に向かいます。

この曲がりくねった細い道は、かつての川の跡です。

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この川の跡の道に沿って進むと、豊島岡墓地に出ます。皇室の墓所で、天皇皇后両陛下以外の方々はここに葬られています。

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この場所には江戸時代までは護持院というお寺がありました。明治初年に廃寺となり、皇室の墓所となったのです。

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護持院の隣にあった護国寺は、今も同じ場所に健在です。もともとは5代将軍の徳川綱吉が、お母さんの桂昌院のお気に入りのお坊さんのために建てたお寺です。

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この護国寺の惣門は、将軍が護国寺に参拝するときに通った御成門でした。そのため武家様式で建てられています。

このように護国寺には江戸時代中期に建てられた建物がたくさん残っています。関東大震災も第二次大戦の空襲も被害を免れたためですが、東京にこのような場所、京都や鎌倉を思わせるような場所があるとは驚きです。

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しかもいわゆる観光名所からは外れていることもあり、境内は静かに散策することができます。

護国寺、お薦めスポットです。

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この護国寺は将軍の寺ということで、江戸時代には墓域はありませんでした。しかし明治時代以降は将軍の加護がなくなったために、普通の寺院と同じように檀家を集めてお墓が建てられるようになりました。

そのお墓なのですが、なんとも有名人が多いのです。有名人のお墓参りを趣味とする人たち、いわゆる墓マイラーの天国でもあるのです。

一部を紹介しますと・・・

幕末の倒幕派公家にして明治初期の政治家、三条実美
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江戸時代の松江藩主で茶人としても高名な、松平不昧公
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“空手バカ一代”極真空手の創設者、大山倍達
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日本近代建築の父、ジョサイア・コンドル
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鹿鳴館やニコライ堂を設計したジョサイア・コンドルの墓が日本にあったということはあまり知られていません。意外中の意外です。

護国寺を出たら、最後にこの場所へ。

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護国寺近くには、雑司ヶ谷の鬼子母神が出土したといわれている場所があるのです。

鬼子母神が「出土」ってどういうこと?

昔この辺りに住んでいた豪族の柳下若狭守の家来が、土の中から鬼子母神像を掘りだしたというのですが、なぜ土の中に埋まっていたのか?など謎の多い話です。

しかも上のこの江戸時代の地図、「鬼子母神出けん井」と描いてある後に、三角形の角の線が飛び出したような図が描かれています。

これっていったい何?


三角形の井戸です。

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掘り出された鬼子母神像は、この三角形の井戸「星の井」で清められて、法明寺(いわゆる雑司ヶ谷鬼子母神)に納められたのだそうです。

本当か嘘かもよくわからない不思議な話です。

ここから護国寺駅へと歩いていき、今回の古地図散歩は終了となりました。


今回のコース
茗荷谷駅→竹早公園→石川啄木終焉地→極楽水→宗慶寺→小石川植物園前→簸川神社→占春園→波切不動→大塚公園→大塚先儒墓地→吹上稲荷神社→護国寺→腰掛稲荷神社→護国寺駅


歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。

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