2015年11月23日

11月23日 古地図散歩に行こう!東新宿〜市ヶ谷

江戸時代の古地図を見ながら町を歩き、新たに見えてきたものから東京のルーツを探る歩き旅応援舎の「古地図散歩に行こう!」、11月23日は「東新宿〜市ヶ谷」コースを歩いてきました。

正直言いまして、あまり人気のないコースです。これまで開催を告知しても、半分は参加申し込みなしで終わっています。

「江戸」を見て回るのになぜ新宿???

という気持ちもわかります。でも、実際に参加した人たちからは「とても内容が充実している」と当舎の古地図散歩の中でも非常に評価が高いコースなのです。

新宿区という町ですが、第二次大戦の空襲によってその面積の9割が焼失しました。しかし焼け残った場所では今も江戸時代の木造建築や石造物が多く残っているという特徴があります。

そんな新宿区を歩く今回のコース、まずは東新宿駅を出発すると西向天神に向かいます。

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江戸時代の地図に富士山のようなものが書かれているところが西向天神です。

江戸時代からつづく細い道の先に鳥居が見えます。

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この神社では江戸時代に奉納された狛犬が残っています。狛犬に書かれた文字を読むことで、どの辺りに住んでいた人たちから信仰されていたのかがわかります。

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さらに江戸時代の地図に描かれている富士山のようなものの正体がこちら。富士塚です。「大久保富士」と呼ばれていました。

その「大久保」とは、この付近にあった大久保村からきています。

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この坂道は久右衛門坂と呼ばれ、大久保村の名主の名前が由来です。

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この坂道の上には抜弁天があります。

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名前の由来は二股になった道の両側に鳥居があり、境内を通り抜けることができるからです。

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これが「苦しみを切り抜ける」とか「願いが神様に抜ける」などといわれて信仰を集めたのです。

弁天さまは水の神さまですから、境内には池があります。その池の中に手水鉢が置かれています。

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うぐぐ・・・ ゆうべは飲みすぎた・・・


と言いたげな竜がいますが、この手水鉢を裏から見ると・・・

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なんと元禄6年(1693)のものです。この時代はどういう時代かというと、第5代将軍徳川綱吉が最初の生類憐れみの令を出した2年後、松尾芭蕉が大坂で死ぬ前年にあたります。

ただの二日酔いの竜かと思ったら、とんでもなく古いものがあるんですね。

さらに道を進んで牛込柳町駅の近くまでやってきました。ここには江戸時代の木造建築物がいくつも残っています。

こちらは浄栄寺の山門

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そしてこちらは幸国寺の山門です。

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浄栄寺は太田蜀山人などの文人たちがよく訪れた文化サロンのようなお寺、幸国寺は大黒屋光太夫をロシア船から受け取って江戸に連れ帰ってきた旗本石川忠房のお墓があります。

そして牛込柳町駅の近くにある甲良町は、かつては「甲良屋敷」と呼ばれていた場所です。

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ここには新選組局長の近藤勇が江戸で開いていた天然理心流の試衛館道場がありました。

その場所の跡地には標柱が立てられているのですが・・・

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それがなんともわかりにくい場所にあるのです。

ここから市ヶ谷駅にかけては、江戸時代の町割りと当時の場所の呼び名の名残が今も町名として残っています。

「当時の場所の呼び名」であって「当時の町名」でないのは、江戸時代には武家屋敷地には町名がなかったからです。

でもそれでは不便なので、通称として使われていた場所の呼び名がありました。

たとえば山伏町

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そして二十騎組

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といった具合です。

ここからさらに進むと台地の末端に出ます。ここにある坂道が浄瑠璃坂。

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この浄瑠璃坂、「浄瑠璃坂の仇討ち」で知られています。父の仇隼人を討つために鷹匠町(浄瑠璃坂を上りきった先の町)に住む仇の家に討ち入った源八たち42人ですが、隼人はおらずその父親たちを殺して引き揚げることになります。ところが源八たちが牛込門(現在の飯田橋駅前)で負傷者の手当をしているとき、跡を追ってきた隼人に追いつかれこの場で乱闘となり、ようやく隼人を討ち取ったというのが「浄瑠璃坂の仇討ち」と呼ばれる事件です。

             あ ・ れ ・ ?

             浄瑠璃坂は???

そうなのです。浄瑠璃坂の仇討ちの物語には、浄瑠璃坂は出てこないのです。江戸時代の人たちは、それだけ坂道が好きだったということなのでしょう。

この道をくだると外堀が見えてきて、この外堀にあった市ヶ谷門の跡地に市ヶ谷駅ができています。

この市ヶ谷駅まで行って、今回の古地図散歩は終了となります。


今回のコース
東新宿駅→西向天神・富士塚→紅皿塚→抜弁天→出世稲荷神社→児玉坂通り→浄栄寺甘露門→幸国寺→経王寺(大黒天・畳屋太兵衛の墓)→天祖神社→試衛館道場跡→林氏墓地→山伏町→二十騎町→鷹匠町→浄瑠璃坂→江戸城外堀→定火消し屋敷跡→市ヶ谷駅


歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。このブログに書いたことよりも、さらにたくさんのお話をしていますので、「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、ぜひ歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。多くの方たちのご参加をお待ちしております。

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2015年11月21日

11月21日 L.L.Beanで古地図散歩 江戸城外堀編2

アウトドアの世界ブランド「L.L.Bean」のお客様向けイベント「アウトドア・ディスカバリー・パートナーズ」で、この秋から歩き旅応援舎も古地図散歩することになりました。

おかげさまでなかなか盛況です。

11月21日は「江戸城外堀2」のコースを歩いてきました。東京駅八重洲中央口から溜池山王駅近くの山王日枝神社まで、今回のコースでは水のある「堀」は出てきません。かつてあった外堀がすべて埋め立てられた区間を歩くのですが、江戸時代の古地図を見ながら歩くと外堀など江戸時代の遺構や痕跡があちらこちらに現れてくるおもしろさのあるコースなのです。

東京駅八重洲中央口の前を南北に通っている外堀通りが、かつての外堀の跡です。この道にそって南に向かうと、鍛冶橋の交差点があります。

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この鍛冶橋の交差点が、かつて外堀にあった鍛冶橋門の跡なのです。現在門の遺構はまったく残っていませんが、交差点には説明板が設置されています。

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さらに南に進みます。外堀跡は高速道路になります。その高速道路が湾曲しているところがあります。

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この高速道路の湾曲は、外堀が湾曲していたことによるものです。かつての外堀の形が、高速道路の形地として名残をとどめているのです。

この外堀の湾曲部の内側には、南町奉行所がありました。その跡地では、発掘調査により発見された石垣の石、穴蔵(現在の地下収納庫のようなもの)、木製の水道管である木樋などが展示されています。

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これは穴蔵


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こちらは石垣


このさきには外堀でもっとも小さな門であった山下門がありました。

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城門の遺構はまったく残っていませんが、帝国ホテル近くのガード下に説明板が設置されています。

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帝国ホテルの脇の道を歩きます。左側にはJRの高架が見えています。この高架沿いに進んだところに、外堀の門の跡があります。

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この場所には幸門橋がありました。

この門の内側にあった町なので「内幸町」なのです。

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この幸橋門から外堀は西に向かってほぼ直角に曲がり、虎ノ門へと向かいます。

虎ノ門の交差点まで出ると、目の前には文部科学省の旧庁舎。昭和初めの建物です。

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この「虎ノ門」という地名は、江戸時代の外堀の城門からきています。

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外堀は「虎ノ門」跡で左に曲がり、その後今度は右に曲がり、溜池山王方面へと向かっていました。その最初の曲がり角が現在の文部科学省の敷地内なのですが・・・

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文部科学省の敷地内には、新庁舎建設時に発掘された外堀の石垣が展示されているのです!!

そればっかりじゃありません。2回目の曲がり角がここなのですが、

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この外堀の角の部分の石垣が、文部科学省から外堀通りを挟んだ向かい側に残っているのです!!!

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虎ノ門の石垣群でひと盛り上がりしたところで、外堀通りを西に歩いて行きます。

やがて東京メトロの溜池山王の駅入口が見えてきますが、この駅名にある「溜池」とは、ここを流れていた川を堰き止めてつくった貯水池のことなのです。もちろんこの「溜池」も外堀の一部を形成していました。

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溜池の名残は交差点の名前に残っているほか、首相官邸(ドローン禁止!)の前の池のほとりに石垣の石が並べられているところなどにあります。

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いよいよ今回の終着点、山王日枝神社です。江戸時代の古地図にももちろん載っています。

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山王日枝神社のある場所は星ヶ岡と呼ばれる台地の上です。戦国時代の城跡だともいわれています。この台地の上から、江戸時代には下に水をたたえた溜池がよく見えたことでしょう。

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山王日枝神社は昭和20年までは江戸時代に建設された建物群が残っており、国宝に指定されていたのですが、残念ながら第2次大戦中の空襲によってほとんどが焼けてしまいました。現在の社殿はその後再建されたものです。

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11月下旬はもっとも日暮れの早い時期です。山王日枝神社から外堀通りへと向かう参道の階段を下りるころには、だいぶ薄暗くなっていました。


L.L.Beanのアウトドア・ディスカバリー・パートナーズのサイトで募集している江戸城外堀の古地図散歩はL.L.Beanのクーポン券付きという特典があります。コースを公開するとほぼ全てのコースが満席になるほどの人気です。今後もあたらしいコースを順次募集していきますので、そのときには上記のサイトからお申し込みください。

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2015年11月15日

11月15日 古地図散歩に行こう!江戸の水路跡 築地編

江戸時代の古地図を見ながら東京を歩く町歩きイベント「古地図散歩に行こう!」、11月15日はかつての水路の跡を求めて築地を歩いてきました。

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築地には本願寺を取り巻く形で四角い「築地川」と呼ばれる水路があり、さらに築地川から隅田川に向かってクランク型に流れ出ている「鉄砲洲川」などがありました。

ともに今は埋め立てなどで残っていない水路ですが、江戸時代の古地図を見ながらこの「築地川」と「鉄砲洲川」の跡を歩いてきました。

集合場所は東銀座駅。出口から地上に出ると高速道路の上に万年橋が架かっています。江戸時代の地図ではちょうどこの辺り。采女ヶ原馬場の横に架かっているのが万年橋です。

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現在、万年橋の上から見える高速道路、ここが「築地川」の跡なのです。

全回の東京オリンピックが開催された折、築地川の水を抜いてそのまま川底を道路にして造られたのがこの高速道路です。

ですからよく見ると、ところどころに川だったころの護岸の石垣が残っています。

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高速道路にならなかったところもあります。江戸時代の地図ではちょうど直角に曲がった場所、軽子橋の架かっている部分です。

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ここは現在公園になっています。

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公園内に入ってみると、なかなか川幅も深さもあった水路だったことがわかります。

ここから先は水が抜かれた「築地川」の跡に蓋がかぶせてあり、その上は公園になっています。

公園の中を歩いていきますと、橋の欄干が公園内に残っています。

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さて、いったん「築地川」を離れて「鉄砲洲川」へ。

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現在は一部はあかつき公園に、残りは道路になっています。

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この道路部分ですが、明治時代にその両側が外国人居留地となりました。日本にやってきた多くの宣教師たちはここに住んだため、いくつものミッションスクール発祥の地があります。

明治学院大学はその一つです。

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意外なところでは指紋研究発祥の地も築地にあります。指紋が一つとして同じものはないことは今や誰でも知っていますが、これは明治に日本にやってきた宣教師が、日本人の指印の習慣を見ているうちに発見したことなのです。

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外国人居留地とは直接関係ありませんが、慶應義塾大学と蘭学発祥の地も築地にあります。

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築地には大名屋敷がたくさんありましたが、中津藩奥平家の屋敷もその一つ。江戸時代中期にこの屋敷内にあった藩医前野良沢の家で解体新書の翻訳作業が行われましたし、幕末に中津藩士だった福沢諭吉が開いた蘭学塾が慶應義塾大学の前身となります。

さて「鉄砲洲川」ですが、隅田川が近いところではこのような道路となっています。

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川が埋められるときには下水管が埋められることが多いです。この道が隅田川に突き当たるところには、このようなプレートがあります。

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そして隅田川に出てみると、ちゃんと下水管の出口が設置されています。

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まさにこの道路が「鉄砲洲川」の跡だったというわけです。

「築地川」の跡に戻ります。伊東忠太設計で東南アジア風になってしまった築地本願寺が「築地川」沿いにあります。

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ここに本願寺があることは重要です。築地は1657年の明暦の大火で全焼した本願寺の再建用地として、木挽町沖の海を火災の瓦礫を使って埋め立てたものなのです。

本願寺は戦国時代に一向一揆を起こして徳川家康を苦しめたことから、幕府から嫌がらせとして再建用地として海を指定されたと伝わっていますが、どうやら事実は違うようです。

幕府からは3箇所の候補地(もちろん陸地)を提示されたのですが、本願寺がこれを断って自ら木挽町沖の海の埋め立てを申し出たそうなのです。この辺りの築地本願寺と幕府とのやり取りは手紙が残っていて、京都の本願寺史料研究所が所蔵しているそうです。

関東大震災で本願寺は倒壊し、現在の本願寺に建て直されるのですが、その隣を流れる「築地川」にも震災復興事業の一環として門跡橋という橋が架けられました。

その橋の一部が本願寺のすぐ脇に残されています。

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これ以外にも、築地の場外市場にも「築地川」の橋の一部が残っています。

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築地市場の中ですが、もちろんそんなところは行きません。あくまで水路の跡をたどるのが歩き旅応援舎の古地図散歩なのです。「築地川」の跡をたどって場外市場を突き抜け、再び東銀座駅の近くまでやってきました。

新橋演舞場の隣にある公園、ここも「築地川」の跡です。

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江戸時代の地図で見ると、この水路の曲がり角の部分にあたります。

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この角の部分では、明治時代に東京商業会議所(現東京商工会議所)が渋沢栄一によって立ち上げられました。その発祥の地の碑があるのですが・・・

いったいどこだ???


これです。

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四方を柘植の植え込みに囲まれて、ちょっとやそっとではどこにあるのかわからなくなっています。いったい何のために碑を建てたのやら。

再び東銀座駅に戻って「築地川」をぐるりと一周したことになります。今回の古地図散歩はこれで終了です。

ここに書いたこと以外にも、築地には面白い場所がたくさんありました。築地で見るべきところは市場ばかりではないのです。そんな楽しさを満喫した古地図散歩でした。

今回のコース
東銀座駅→築地川跡→万年橋→桂川甫周屋敷跡→合引橋跡→新富座跡→築地川公園→軽子橋跡→赤穂浅野家上屋敷跡→慶應義塾発祥の地→あかつき公園→佃島渡船場跡→備前橋跡→築地本願寺→波除稲荷神社→海軍医学校跡→東京盲唖学校跡→東銀座駅


歩き旅応援舎の古地図散歩は、週末を中心に開催しています。このブログに書いたことよりも、さらにたくさんのお話をしていますので、「参加してみたい!」とか「もっと詳しく知りたい!」という人は、ぜひ歩き旅応援舎のホームページをご覧ください。多くの方たちのご参加をお待ちしております。

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